「直すお金も、気力もない──」 雨漏りしている大阪長屋を“手放したくない”男の本当の理由
1:ポタ、ポタ、と音がした。——その日、天井が泣いていた。
大阪市西成区。昭和の香りがまだ残る細い路地の長屋。
梅雨の夜、古い木造の屋根が静かに音を立てた。
「ポタ…ポタ…」
台所の蛇口かと思って覗き込むと、
天井の端から水が落ちていた。
古い畳が濡れて、独特の匂いを放っている。
「またや…」
50代半ばの男は、ぼそっとつぶやいた。
タオルを探したが、動く気になれない。
ただ、そこに座って、水の音を聞いていた。

2:「直さなあかん」と思っても、体が動かない
男は、母が亡くなってからこの家に一人で暮らしている。
十年以上前に仕事を辞め、今はほとんど外に出ない。
買い物は近くのスーパー、
あとはテレビと古いラジオが相棒だった。
雨漏りも、壁のシミも、もう何年も前から気づいていた。
でも修理を呼ぶ勇気が出ない。
お金がないわけではない。
「誰かにこの家、見られるのが嫌やねん」
掃除していない部屋。散らかった洋服。
母が残した茶碗やタンス。
このままの家を他人に見られるのが、怖かった。
“片づけたら母が本当にいなくなる”
そんな気がしていた。

3:この家には、まだ“声”が残っている気がする
昔は賑やかだった。
母が焼くお好み焼きの匂いが路地まで広がって、
近所の子どもが勝手に上がり込んできた。
笑い声、テレビの音、雨戸のきしむ音。
全部、この家の中にまだ残っている気がする。
「この家を壊したら、あの頃の音も消えてまうんちゃうか」
家の中に残る湿った空気が、まるで
思い出を閉じ込めているようだった。

4:現実はゆっくりと追いかけてくる
ある日、ポストに区役所からの封筒が届いた。
「空き家の管理について」
玄関先で受け取ったまま、しばらく動けなかった。
外壁にヒビが入り、屋根瓦もずれている。
ご近所から「危ないで」と
声をかけられるたび、胸が痛んだ。
それでも動けない。
心の中で、「まだ大丈夫」と言い聞かせた。
でも、畳はふかふかして沈む。
天井は黒く染み、部屋にはカビの匂いが漂う。
静かに、しかし確実に、家は「限界」に近づいていた。

5:「売る」という言葉に、罪悪感があった
ある日、ポストに不動産会社のチラシが入っていた。
「古家・雨漏り・そのままでも買い取ります」
“そのままでも”。
その言葉に、男の心が少しだけ動いた。
「このままでもええんか」
「壊さんでもええんか」
少しだけ、安心した。
でもすぐに、胸の奥から苦い思いが込み上げた。
「母の家を、金に換えるんか」
それは裏切りのような気がした。
母の笑顔や、正月のにぎやかさ。
全部、この家の壁が覚えている。
それを“売る”という言葉で終わらせていいのか。
男は、チラシを丸めて捨てた。

6:それでも、誰かに託すことにした
数週間後。
また大雨の日。
天井の板が一部、落ちた。
見上げた空に、月明かりがうっすら見えた。
風が吹き込み、母の写真が床に落ちた。
「このままやったら、この家が苦しむ」
その瞬間、男は悟った。
この家を守りたいなら、もう自分の手には負えない。
だからこそ、誰かに託すべきなんや。
売ることは裏切りじゃない。
この家に、もう一度“息”を吹き込むための決断や。

7:手放すことは、忘れることではない
売却の手続きを決めた夜、男は押し入れを開けた。
そこには、母と撮った古いアルバムがあった。
正月のこたつ、祭りの写真、庭で撮った笑顔。
「もうええかな」
涙は出なかった。
ただ、胸の奥に温かいものが残った。
家を手放すことは、思い出を消すことじゃない。
むしろ、思い出を外に出してあげることなのかもしれない。

8:雨音が止んだ朝に
次の日、雨がやんで、空が明るかった。
天井のシミは消えない。
でも、光が差し込む場所が少し増えていた。
男は玄関の鍵を開けた。
外の風が、湿った空気を押し出すように入ってくる。
「この家、また誰かに使ってもらえたらええな」
そうつぶやいて、男はゆっくりと外に出た。
久しぶりに浴びた朝の光は、
冷たくも、どこか優しかった。
その光の中で、雨の跡が乾いていくのを静かに見つめていた。

