父が教えてくれた最後の仕事【前編】 ~成年後見人になった引きこもり息子の物語~
35歳。
職業、無職。
最後に働いたのは23歳の頃だった。
コンビニの夜勤。
たった半年で辞めた。
人間関係が苦しかった。
怒鳴られるのが怖かった。
失敗するのが怖かった。
そして何より、自分が情けなかった。
それから12年。
俺は家からほとんど出なくなった。
朝起きる。
昼にコンビニへ行く。
夜中までゲームをする。
寝る。
また起きる。
そんな毎日だった。
友達とは連絡を取らなくなった。
同級生が結婚した話も、子供が生まれた話も、
全部スマホの向こう側だった。
俺だけが取り残されていた。
それでも父は何も言わなかった。
「焦らんでええ」
「そのうち何とかなる」
それが父の口癖だった。
母は5年前に亡くなった。
だから父と二人暮らしだった。
70歳を過ぎても父は働いていた。
小さな運送会社で事務員として。
朝六時に起きて弁当を作り、スーツを着て出ていく。
俺はその背中を見るのが嫌だった。
申し訳なかったからだ。
本当は分かっていた。
父は俺の分まで働いている。
俺の生活費も払っている。
俺が生きていけるのは父のおかげだ。
でも認めたくなかった。
認めたら、自分の弱さと向き合わなければならないから。
冬の日の電話
その電話が鳴ったのは12月だった。
午後2時。
知らない番号だった。
無視しようと思った。
だが何となく出た。
「〇〇さんのお父様のご家族でしょうか」
胸がざわついた。
病院からだった。
父が会社で倒れたという。
脳梗塞だった。
急いで病院へ向かった。
何年ぶりかに乗る電車だった。
周囲の視線が怖かった。
誰も見ていないのに。
俺だけが社会から浮いている気がした。
病院へ着いた時、父は集中治療室にいた。
機械の音が鳴っていた。
眠ったままの父。
あんなに大きく見えた父が、小さく見えた。
命は助かった。
しかし後遺症が残った。
身体も不自由になった。
そして判断能力が大きく低下した。
退院後、父は通帳を見ても理解できなかった。
年金の話も分からない。
ある日など、「お前、誰やったかな」
と笑いながら聞いた。
冗談ではなかった。
本当に分からなくなっていたのだ。
俺はその場でトイレへ逃げた。
そして声を殺して泣いた。
成年後見制度との出会い
市役所の福祉相談窓口で初めて聞いた。
成年後見制度。
職員は丁寧に説明してくれた。
「お父様の判断能力が低下している場合、
ご家族が成年後見人になることもできます」
成年後見人。
初めて聞く言葉だった。
だが説明を聞くうちに理解した。
誰かが父の代わりにならなければならない。
施設契約。
銀行手続き。
年金管理。
財産管理。
全て。
その瞬間、思った。
無理や。
俺には。
10年以上引きこもってきた人間やぞ。
役所へ行くだけでも緊張する。
人と話すだけで汗が出る。
そんな人間が後見人なんて。
だが現実は残酷だった。
親戚はいない。
兄弟もいない。
俺しかいなかった。
机の上に積まれた書類。
戸籍謄本。
住民票。
診断書。
財産目録。
収支予定表。
後見人候補者事情説明書。
見たこともない単語ばかりだった。
頭が痛くなった。
投げ出したくなった。
だが通帳を見た。
父の通帳だった。
そこには毎月同じ金額の給料振込が並んでいた。
何十年も。
途切れることなく。
その数字を見て思った。
父はこれをずっと続けてきたのか。
雨の日も。
暑い日も。
しんどい日も。
俺のために。
家庭裁判所へ
人生で初めて家庭裁判所へ行った。
スーツなんて持っていない。
父の古いネクタイを締めた。
鏡を見る。
似合っていなかった。
それでも行った。
待合室では手が震えていた。
帰りたかった。
逃げたかった。
だが逃げられなかった。
父の人生がかかっていた。
職員は優しかった。
不足書類を教えてくれた。
修正方法も説明してくれた。
思っていたほど怖い場所ではなかった。
数か月後。
封筒が届いた。
家庭裁判所からだった。
成年後見人選任通知。
俺は正式に父の成年後見人になった。
その日から人生が少しずつ動き始めた。
- 不動産キャリア29年
- 株式会社フォローウィンドコーポレーション代表取締役
どんな物件買取もお任せ下さい!
若い時にはリフォームの仕事も経験済。
売主様には査定時に買取価格を算出します!
家の買取や売却のご依頼・ご相談は
ワンちゃんと古い家が大好きな白髪交じりの私・松本が全てご対応いたします!
